文化財の保存/修復 絵画・書跡分野における国宝・重要文化財等の保存修理(京都市)
株式会社岡墨光堂
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2021年7月号:第11回 新しい材料と技術(4) 乾式肌上法から生まれた技術

岡 興造(談)

乾式肌上法がこの修理の世界で技術として定着するには、少し時間がかかりました。第10回でお話した昭和50年代後半のふたつの修理の後、私たちの工房ではこの方法をさらに確かなものにするため、細部にわたって技術の工夫がされ、少しずつ進化していきました。そのようにして修理実績を重ねるうちに「表面に接着剤を塗り、紙を貼り、表打ちをした状態で、裏面から時間をかけて処置をする」ことが有効であると、他の工房でも認められるようになりました。ただし、この表打ちの紙を安全に取り除くには大変危険を伴うと、他の技術者から指摘を受けました。しかし、湿式では乗り越えられなかった工程を改善するため、リスクをどのように回避するかを考えて、材料と技術を改良していくのが重要であると常に考えていました。細かな部分においても、使用する水の量や表打ちの布海苔の分量、表打ちを取り除くタイミングなど、技術者は経験を重ね、改良していきました。このような調整を繰り返し行うことで、技術として定着していくものです。

○裏面から知る絵画表現の工夫

第10回でお話した重要文化財《孔雀経曼荼羅図》(松尾寺所蔵)のように、劣化して紙としての形状を保つことができないような肌裏紙を除去することができたのは、肌裏紙を「めくる」のではなく「解体して取り除く」という考えに至ったことが大きかったと思います。表打ちによって画面を保護するため、裏面から与える水分量を減らすことができ、和紙の水素結合をゆるめて繊維を解きほぐし、徐々に除去していくことが可能になりました。ただし、1日に10cm角しか作業を進めることができないほど、手間は多くかかります。どのような作品でも乾式肌上法を選べばよいというわけではありません。大切なことは修理前にこの絵はどのような構造なのかを可能な限り観察し、把握しておくことです。表側からわかることには限界がありますが、例えば顕微鏡観察によって絹目の下に絵具が見えていることがわかるならば、裏彩色を守る必要があります。

以前の修理時には、至らない技術などにより裏彩色がとれてしまい、表現が変化したものが多くありました。例えば、海の表現が画絹の色のみで、つまり、白から黄変したような絵絹の色に墨で描かれた波の線が加わった状態で、見えている場合があります。制作当時は、裏から塗られた群青色が画絹を通して表から見え、海は青色に見えていたはずです。裏から見える青色に、表から描かれた波の細い墨線が加わって、美しい海原の表現になっていたことが想像されます。現在の見え方は、過去の修理において、この群青色が肌裏紙の取替の際にとれてしまったために生じたものであるとわかります。本来は裏彩色があり、重厚な絵画表現があったことを知って見れば、この絵画をもっと深く見ることができるでしょう。乾式肌上法開発以前の修理がみな失敗だったかというと、そういうことではありません。そのときどきに最善の方法で処置がされていたからこそ文化財が受け継がれたということが一番大事なことです。ただ、このような例を知り、現状の表から見えている情報だけでは判断できない構造があることを想定できれば、他の作品についても多様な表現が存在する可能性に思い至ることができます。すべての技術者が絵画の構造を認識して、この方法で修理をおこなえば、過去の修理で直面していた危険を回避することができます。

このように、湿式肌上法が抱えていた技術上の課題を解決するために開発した方法が、結果的に、肌裏紙なしで裏面から長時間観察することを可能にしました。裏面からの観察は修理中でなければできません。そこには表面からの観察のみでは知ることのできない絵画表現の工夫が結集しています。裏からの調査記録が蓄積されることによって、表からの見え方を支える絵画表現の工夫や構造をきちんと記録できるようになりました。裏面から時間をかけて調査できるということは、絹本修理の根幹を変えることだったと思います。現在の絵画の構造には理由があり、絵具層、料絹、裏打紙や補修の痕跡など様々な要素が組み合わせられて、現在の「見え方」につながっています。

○汚れの移動を防ぐクリーニング

湿式では肌上げ時に多量の水を使用して、肌裏の糊を膨潤させて肌裏紙をめくります。画面の大きさによりますが、この作業は数時間おこなわれます。この間に、本紙に付着しているいろいろな汚れや埃が水によって溶けて移動し、本紙全体に再び定着する危険性があります。画面が大きいほど作業には時間がかかり、水によって本紙全体に移動した汚れが表面に当てた養生紙にも付着します。汚れが付着した養生紙をその後取り除くことで、汚れも取れたと思いがちですが、全体を古色に染め付けていることにもなります。特に、白色絵具層の表面に汚れが付着すると、汚れが目立ち発色が弱まり、仕上がりに大きく影響します。また、一度白色に付いた汚れは除去が非常に難しくなります。これは汚れの粒子が大変細かいためです。

白色系の絵具層の発色が少々悪くても修理時の絵具層の欠失ではないと見なされ、かつ、全体に色が付くため、深刻に受け止めないということも多々あったと考えます。写真やその他の記録を照合して、修理時に絵具層の欠失や剥落がないと判明すれば、修理は安全におこなわれたと見なされます。発色に少しの変化があっても、絵具がなくなったわけではないためです。絵具の発色が絵画表現として大切であることは言うまでもありませんが、少しの色彩の変化は、汚れ色でありながら「古色」という言葉で許されていることが多いことも事実です。しかし、これは本来、修理時に避けなければならない必要な配慮です。適切なクリーニングによって乗り越えられるのではないかと考えています。

汚れの移動を避けるため、乾式肌上法をおこなう前のクリーニングは、絵具の剥落止めと同じく重要な工程となります。絵具のパッチテスト(小面積の耐水性試験)などをおこない、表面にレーヨン紙をあて保護してから、水によるクリーニングを行います。そのあと、また剥落止めを行い、布海苔による表打ち、補強、裏面からの肌上げと進めていきます。乾式で肌上げを行う前に、絵具層の状態を見極めてから水溶性の汚れを除去しておくこと、十分に絵具層の剥落止めをしておくことによって、より安全な修理の方法が整うのです。

この工程のうち、布海苔による表打ちは、表面の安定と保護を第一の目的としていますが、その他にも大きな利点がありました。それは、布海苔のクリーニング効果です。古くは着物の洗いをするとき、着物を解体して布海苔で板に貼り付け、この糊を取り除くことで汚れを除去する方法がとられていました。また、女性の洗髪にも布海苔が使用されていました。現在も布海苔を主材料とした布海苔シャンプーが市販されています。布海苔が汚れを取り除く効用を持っているということは、このように古くから知られていました。修理計画を策定するときには、表打ちをし、それを除去する工程でも汚れの除去が期待されることを想定した上で、事前のクリーニングの程度や使用する水の量を計算することが重要です。

○乾式肌上法から生まれた修理の可能性

料絹が欠失した箇所に裏面から補修絹を補填するという工程も、乾式肌上法が確立したことにより生まれた変化のひとつです。湿式の場合は、肌裏紙を除去すると全体が乾燥しないうちに新しい肌裏紙を打つ必要があります。乾燥してしまうと本紙料絹が伸縮したり、絵具層の収縮などが加わり、劣化している本紙料絹に亀裂が入ったりしてしまいます。このような危険性があるため、肌裏紙取替の間に欠失箇所の補填をすることは考えられませんでした。従来、補絹は肌裏打ちの後におこなっていましたが、乾式肌上法の採用によって、肌上げ後に裏面から補絹をすることができるようになりました。これもまた、より安全な修理のための重要なポイントです。肌裏打ち後であれば、既に一度肌裏打ちのために接着剤を塗っている肌裏紙に、補絹をするための接着剤を重ねて塗ることになります。料絹と補絹のバランスを考えるとよいことではありません。特に大きな欠失部であれば、本紙全体のバランスを崩します。肌裏紙除去後に裏面から補修絹を補填し、その後で肌裏打ちをすることができれば、料絹と補修絹が同じ条件で肌裏紙と接着し、一体化することで全体のバランスをとることができます。

また、現在では、料絹が失われ肌裏紙にのみ裏彩色が残っている場合にも、裏彩色保持の方法が検討されます。制作時に着彩された料絹が既に失われているということは、本来裏彩色が接着していた戻すべき場所がないということです。修理によって裏打紙を打ち替えれば、そこに付着している裏彩色も画面から離れることは必然であり、かつては対応ができませんでした。現在は、肌裏紙を除去する前に表から補修絹を補填して裏彩色を保護しておき、乾式肌上法によって肌裏紙を薄く残すことが可能です。新しい技術の開発が次の技術への展開を促し、以前にはできなかった修理、以前はあきらめざるを得なかった表現の保持へとつながっています。技術は少しずつ進んできています。

他にも、時間をかけて裏面から処置できるようになったことで、安全にできるようになったことがあります。複雑な過去の補修の痕跡の把握と処置もそのひとつです。過去の修理で何層にも補修絹や補修紙があり、それらを取り除くのは大変危険が伴うことがあります。補修され補填された部分は修理時に全て除去することが基本方針ですが、表面に見えていて既にその文化財のイメージの一部となっている補修部分については修理後も温存する選択をすることがあります。この場合、保存上の危険性を軽減するために、裏面から本紙と補修部分の重なりをできるだけ削り取る作業を行います。この作業が可能になったのも、裏面から時間をかけて作業することを可能にした乾式肌上法の恩恵のひとつです。

国宝《那智滝図》(根津美術館所蔵)の修理を例にあげると、修理前、画面中央の滝の部分は、何層もの過去の補修が重なり合う複雑な構造となっていました。補修絹上の表現が滝の表現を支えている状態です。補修絹の材質も一様ではありませんでした。従来であれば過去の補修はすべて除去するのですが、このときは過去の補修を全て取り除くと絵画表現が一変することが明らかでした。所有者、文化庁の監督官と修理技術者で何度も議論を重ねた結果、補修部分をすべて除去することはせず、補修絹の重なりを可能な限り除去して、一枚の画絹の状態に近づける方針をとることになりました。それが、今後の保存を考えたときに最も安全な方法であると考えられたからです。肌裏紙の除去後、裏面から時間をかけて補修絹を観察し、重なり部分を削り取る作業は、乾式肌上法でなければできないことでした。

他にも、乾式肌上法から生まれた処置の工夫の例があります。東福寺所蔵の頂相、重要文化財《応菴和尚像》の修理の際には、過去の修理でずれた肌裏紙のために表面から二重に見えていた描線を戻す作業をおこないました。また、絹本の作品だけではなく、紙本の障壁画でも、乾式によって安全に旧修理の補修を取り除くことができるようになりました。乾式肌上法はいろいろな場面で変化した技術を使用し、現在も進化を続けています。

○より安全な修理のための選択

乾式肌上法ができるようになってからは、修理工程の中で非常に大きな意味をもつようになりました。一部の例をご紹介したように、この新しい肌裏紙の取替方法がさらに新しい方法を生むことにもつながりました。

乾式肌上法は、新しい技術の開発ありきで出来上がったものではありません。修理を通して何を残さなければならないのかを考えたときに生まれたものです。たとえば、修理前に顕微鏡でのぞいたとき絹目の下に見える絵具が、表からの見せ方を計算して塗られているとするならば、これを守ることが重要であることを認識して修理に臨むことが求められます。修理作業にかかる前に、可能な限り細かく観察して、修理対象となる作品の絵画技法や構造を把握し、安全な修理ができるかをつねに考える必要があります。乾式肌上法に限らず、目的意識をもって対象を的確に把握し、適切な方法を選択することができるかどうか、修理技術者の認識の問題であると思います。

乾式肌上法の確立までには、技術者による道具や調査方法の工夫の積み重ねが大きかったと思っています。ガラス台と電灯を使った透過光による観察や、ルーペ、顕微鏡による観察、医療用ピンセットの利用、表の絵具を傷めないレーヨン紙と布海苔の選定など、より精緻な観察と作業を求めるようになった技術者の認識の変化と努力がなければ、この方法を完成させることはできなかったでしょう。現在の修理技術者にとっては当然の技術である乾式肌上法ですが、昭和40年代、50年代を知る者からすると、肌上げという一工程の改革ではなく、修理に対する考え方を大きく転換させた技術開発であったと思います。

(第12回に続く)

1 修理の詳細は、『根津美術館紀要 此君』第1号〔特集 国宝「那智瀧図」-昭和の修理を終えて〕(公益財団法人根津美術館、2009年)をご参照ください。

2 修理の詳細は、「修理報告2 応菴和尚像」『修復』第8号、pp19-34(株式会社岡墨光堂、2004年)をご参照ください。